気ままに過ごすことの大切さ
昔の私は何かと予定を詰めるタイプだった。
とにかく、暇なのが嫌いだった。
一日たりとも無駄にはしたくないと。
けれど、そればかりでは人は心を失う気がすると感じたのが二年前。
当時からすると大きな失恋を経験して以降、連日連夜予定を入れては誰かに会っていたり、お酒を飲んでいた。家(その時はまだ実家にだった)に帰ることが嫌だった。
目の前の楽しさを快楽と感じ、新しいものを欲するばかりで、感覚をマヒさせていた。
新しい刺激を得て過去の辛さを忘れる行為はやがて、「自分がどうありたいか」の判断を鈍らせた。
自分で考えるという行為を疎かにし、他者に委ねて責任転嫁するというクセをつけてしまうこととなった。
その時にも楽しかったことはあったけれど、少しのことで許せなくて相手に怒り、嘆いたこともたくさんあった。
そうして、自分の心は荒んだ。こんな自分なんて要らないとさえ思った。
そんな時、一人暮らしという大きな転換期に入った。
賃貸契約だ引っ越しだ、現実的な数字と準備に向き合うこととなった。
そして、引っ越して一人暮らしがスタート。
最初は何もなく、物を集めたり部屋を作ることからスタートで、毎週末のように調達に行ったり、アレでもないコレでもないと試行錯誤した。
手探りで、時には失敗した〜なんて買い物もあった。無駄な出費だ…なんて凹んだりもした。
けれど、昔とは違う「自分でやる、考える」という行為が増えて、それが一番自分の心に響いてくるのを感じた。
悔しい、やっちまった、哀しい、ショック、嬉しい、やったー!…小さなことでも感情が溢れるようになり、気持ちが豊かになっていくのを感じた。
特別なイベントごとは減って、家と職場の往復や家とスーパーの往復が多くなったけれど、小さな気づきや好奇心はとても増えてきた。
その小さな気づきや好奇心こそ、逃してはいけないことで、それらはふとした瞬間や予定のない空白(余白)ともいえるところにある。
その余白がなければ、湧いてくることはなかったのだから、余白というのはとても大切なのである。
昔予定詰め込み娘だった私に父はこう言った。
「何もしない日っていうのも大事だ。お前にはそういう日もあっていいだろう」
当時は「詰め込みすぎな私に休めってことなのかな?」と思っていたけど、そうばかりではなく、自分の中での気づきを大事にしてほしいってことだったのかもしれない。今ならそう思える。
そんな小さな気づきと好奇心が今日もあった。
もともとの予定が昨朝なくなったのもあるが、昨日の余韻から今日はゆっくりしていたいと思い、予定は入れずに家でゆっくりと目が覚めた。
目が覚めてから思うままに行動し、少しずつ身の回りの整頓を始めて、何をしようか考えた。
そうしたら、やろうと思うことがドンドン出てくる。
洗濯機まわして一斉に干そう(我が家は部屋干しオンリー)、ナスと麻婆豆腐の素(ナスも可)があるから麻婆茄子丼作ろう、週次報告書こう、職場の特別報告作ろう、…いっぱいあるじゃない
その途中、たまたまTwitterを見ていたら近場に美味しいワンタン麺があると知って、雨が本降りになる前に行こうと決めて最低限の身支度をしてお出かけ。
行く途中の電車でもいろいろ思い浮かんだ。
母の日に何を送りどんな想いを込めようか、この場所には何かありそうだ、ワンタン麺のお店までどの道のりで行こうかな…本当にドンドン出てくる。
ありすぎてキリがない!
とにかく出来ることからやろう!
ひとつずつやればいい
何も予定がない、暇なんていうことはない
何をするかはその瞬間瞬間で決めてやればいい
(プライベートではね)
暇そう?馬鹿言ったな!好奇心と気づきに暇なんてない!常に稼働している!
ふわもり、ワクワクすっぞおー!
今日はそんな気持ちで雨が降る前にワンタン麺を食べに行ってきたので、後ほどあげるとしよう。